愛する家族が相続トラブルに巻き込まれないために、最後の責任として「遺言書」を残すことが重要。しかし、時には数十年経ってから、遺言書が見つかることもある。
生前の松鶴さんは一度も鶴瓶に稽古をつけたことがなかったが、松鶴さんの遺言には、「ほっといた方がいい、こいつはこのままでええんや」と書いてあったという。松鶴さんの4番目の弟子である笑福亭松枝(69才)が話す。
「遺言書の詳しい内容はわかりませんが、師匠が亡くなった際、弟子に向けたメモが病室にあったんです。『次はこの名前を襲名しなさい』ということが書いてあって、私らは師匠からの遺言やと思っています」
「『来る者は拒まず、去る者は追わず』というのが松鶴のポリシー。米朝師匠のところは入門するのに審査がありましたが、松鶴の場合は誰でもOK。ただし、その後が大変。当時、師匠は大阪・住吉区の長屋に住んでいて、その中のひと間が師弟の稽古場になっていたのですが、毎日、『違う、あほんだら、ボケ、カス、去(い)ね!』と怒声が飛んでいました」(松枝・以下同)
顔を真っ赤にした松鶴さんが灰皿をテーブルに叩きつけるたび、弟子たちは震え上がった。松鶴さんの厳しさについていけず、次々と弟子が去っていく中、松枝には忘れられない記憶がある。
ある日、大阪万博関連の仕事のオーディションがあり、松枝は同期の仲間と一緒に受けたが、1人だけ落ちてしまう。落胆する松枝を、松鶴さんは名古屋の寄席に同行させ、前座に抜擢した。
「これは下手を打つわけにいかないと、言葉が出なくなるほど緊張してしまった。大失敗です。師匠に迷惑をかけてしもた、もうおしまいやという気持ちで、情けなくって、みじめで、その晩、師匠に『辞めさせてもらいます』と伝えようとしました」